聖書のみことば
2023年1月
  1月1日 1月8日 1月15日 1月22日 1月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月22日主日礼拝音声

 耐え忍ぶ者の幸い
2023年1月第4主日礼拝 1月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書13章1〜13節

<1節>イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」<2節>イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」<3節>イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。<4節>「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」<5節>イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。<6節>わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。<7節>戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。<8節>民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。<9節>あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。<10節>しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。<11節>引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。<12節>兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。<13節>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 ただ今、マルコによる福音書13章1節から13節までを、ご一緒にお聞きしました。
 1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう』」とあります。主イエスは、神殿の境内で人々に語るべきことを全て語り終えられ、また、一人の貧しいやもめの中に、心の底から神に信頼して思い煩いから解き放たれている様子を御覧になり喜ばれたのち、神殿を後になさいます。もはやこの場所に戻って来られることはありません。主イエスはここから、いよいよ十字架へと続く最後の歩みに踏み出して行かれます。
 主イエスはこの時すでに、御自身の地上の歩みがもう間もなく終わることを御存知でした。主イエスの地上の時は取り去られます。けれども、それですべてが終わるわけではありません。十字架の苦しみと死の後に復活し、天に移され、永遠の命を生きておられる方として、また再びこの地上を訪れてくださいます。弟子たちに命を与えて下さる方として、私たちの許にも来て下さり、親しく交わって下さいます。
 十字架の死は、主イエスにとっては終わりではありません。永遠の命に至る通過点であり、人々に新しい命を与えるための重大な働きの場です。そのことを御存知である主イエスは、この時、きっと身の引きしまる思いでいらしたことでしょう。

 ところで、そんな主イエスに一人の弟子が言葉をかけます。名前が記されていないこの弟子は、無名だったというわけではなく、いわば、この時点での主イエスの弟子全体を代表しているように感じられます。信仰の事柄をよく分かっていない一人の弟子が不用意なことを言ったというよりも、おそらく弟子の多くがエルサレム神殿の大きさや見事さに驚き、すばらしいと感じる思いを持っていたのだろうと思います。この弟子は、素直に人間的な思いを口に出しているのです。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」。確かに、大きいものや美しいものは、私たちに強い印象を与えることがあります。この神殿を築いたということに誇らしい思いを持ったかもしれません。
 この弟子の姿は、まことに正直な人間の姿を表していると思いますが、しかしこの時、この弟子が目に留めていたものは、主イエスが思いを向けて御覧になっていた事柄とは、まるで違うということも確かです。この弟子、いえ弟子たちは、エルサレム神殿の造りの見事さに心を奪われています。けれども、その見事さは人間の手によるものであり、人間の手によるものである以上、過ぎ去らざるを得ないものです。今は大きく見え、栄え、永久に続くように感じられるものも、人間に由来するものは、容赦ない時の流れの中で過ぎ去ってゆきます。
 しかしそれと対照的に、主イエスは、過ぎ去ることのないもの、即ち「神の永遠の御業」に思いを向けておられます。前回お聞きした貧しいやもめの献金を主イエスが喜んで御覧になったという話も、主イエスは献金の金額を喜ばれたのではなくて、そこに神への確かな信頼があり、神もまた確かに彼女を受け容れてくださっているという、揺るがぬ真実を御覧になって喜ばれたのでした。
 主イエスはそのように、神が確かに私たち一人ひとりを捕らえ、支えて下さる中で、人間の側も、その恵みにお応えし感謝して生活する様子を御覧になりたいと思っておられます。目を凝らして、人間の生活の中に神の御業が行われる様子を探し求められます。私たちが各々の人生で経験する困難や試練にも拘らず、心から神に信頼を寄せて生活できることを望んでくださいます。
 そして、そのように神に信頼する拠り所を与えるために、主イエスは今、御自身の十字架への道をはっきり見据えながら、果たすべき務めに赴こうとなさるのです。御自身もまた、神の永遠の御業に仕える者として、思いを向けておられます。

 ですから主イエスは、神殿の石組の大きさや見事さを御覧になっても、それに心を奪われることはありません。むしろ、今は繁栄しているように見えるこの巨大な建物にも、やがて終わりの時が来るという影を敏感に感じておられます。決して朽ちることのない神の永遠の御業に思いを寄せている時には、「朽ちるものは、たとえ一時どんなに輝いて見えるとしても、やがて朽ち果てるしかない」ということが、はっきり示されます。
 主イエスは弟子たちにお答えになります。2節に「イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』」とあります。主イエスは本当のことをおっしゃいます。この世界に存在するものは、いずれ必ず過ぎ去るのです。これは、主イエスが神の御業の永遠ということに思いを向けておられるからこそ、おっしゃった言葉です。
 ところが弟子たちは、この時、主イエスがおっしゃったことが分りませんでした。
 主イエスの返事を聞いて、弟子たちの中では、今まで抱いていた建物に対する強い印象が一瞬で消え去りました。代わって、彼らがいつも心の内に抱えている不安な気持ちがムクムクと頭をもたげてきました。それは、誰もがいつでも秘かに心の内に抱いている不安であり恐れです。「決して永遠な者ではない」、そういう私たち人間がどうしても抱かざるを得ない不安、それは「私たちはいつか失われ滅んでしまうのではないか」という不安です。

 不安に駆られた弟子たちが主イエスの許にやって来て、尋ねました。3節4節に「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか』」とあります。主イエスの許にやって来た4人の弟子たちが、「ひそかに尋ね」ているところに、彼らが抱える強い不安と憂いが表われています。彼らは、人前でおおっぴらに尋ねることができませんでした。この大きな神殿がいつか滅びてしまうかもしれないと聞かされ不安を抱いた彼らは、それがいつ起こるのか、またどんな予兆があるのかを知りたいと思い、尋ねました。
 しかし、そんなことを彼らが知ったところで、一体彼らに何ができるのでしょうか。彼らの問いは、実は、的を得たものになっていません。本当に問われるべき事柄は、神殿にも終わりがあり、また一人一人の命の長さにも限りがあるのであれば、まずその事実を直視した上で、その限りある時間と命を、「一体、自分はどのように生きれば良いのか」ということに向けられるべきではないでしょうか。

 4人の弟子たちが不安を抱きながら主イエスに質問をした時に、主イエスは、キデロンの谷を挟んだオリーブ山から神殿の方に向いて座っておられたと、3節に述べられています。エルサレム神殿のあるシオンの山を下り、キデロンの谷を過ぎるとオリーブ山があります。シオンの山もオリーブ山も、実際には丘と言った方が良いくらいの山ですが、谷を挟んで、お互いがよく見えたようです。
 主イエスはもう二度と、エルサレム神殿に戻ることはありません。今は恐らく夕方ですが、翌日にはベタニアのシモンの家で昼を過ごされ、夕方近くになってエルサレムの町中にあったマルコの家の2階座敷で過ぎ越しの食事をお取りになり、そしてオリーブ山に戻ったところで逮捕されることになります。捕らえられた主イエスは、オリーブ山からエルサレムへと連行されますが、神殿には連れて行かれず、夜の間、大祭司の家に留め置かれて非公式な裁判を受け、夜明けと共にピラトの官邸に連れて行かれ、裁判を受け、朝9時にはエルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架に磔にされてしまいます。主イエスがエルサレム神殿の境内に立ち入ることは、もはやありませんでした。
 そして神殿自体は、主イエスの十字架の後、40年程経ってから、ローマの軍勢に取り囲まれ、城壁は破られ、美しい建物がすべて破壊されてしまいます。主イエスがおっしゃったとおりのことが起こるのです。神殿と、そこで権力を振るっていた大祭司の政権は、そのようにして滅んでゆきます。

 主イエスはそういう神殿を、今、向かいの山から眺めておられます。今は大きな石で美しく飾られている神殿ですが、その華やかな営みが決して永遠に続くのではないことを既に見抜いておられます。
 しかし主イエスが御覧になったのは、ただ一切のものや事柄が過ぎ行き滅んでゆくということだけではありません。そのような厳しい滅びはやがて起こるに違いないのですが、しかし滅びが最終的な事柄ではないことを、主イエスはこの時、弟子たちに教えようとなさいます。5節から8節に「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである』」とあります。
 主イエスは、「惑わされないように、また慌てないように」と、弟子たちを諭されます。エルサレムの城壁が破られ、神殿の建物が崩れ落ちるような激しい戦は、残念なことではあるがきっと起こると言われます。しかしその時に、「どうあるべきか。その中をどう生きるべきか」を、「あなたがたは慌ててはいけない。絶望してはいけない」と教えられます。何故なら「それは、世の終わりではなく、産みの苦しみの始まりだからだ」とおっしゃるのです。

 私たち人間は、自分が今生きている生活の中に安住するようなところがあります。
 その生活が取り去られたり、崩れてしまったりすると、すぐに何もかもが終わりだという思いを抱いてしまいがちです。しかし主イエスは、厳しい困難や試練に直面する時に、そこですっかり諦めて絶望してしまうのではなくて、「なお、希望を持つように」と教えられます。神が確かにおられ支配してくださるところでは、一つの物事や事柄が取り去られるように思えるところでも、その先に新しい命が備えられ、新しい生活がもたらされるからです。「戦も天変地異も決して終わりの事柄ではなく、また終わりの始まりでもない。それは産みの苦しみの始めである。この先に、なお産み出され、与えられる命がある」ことを、主イエスは教えられるのです。神が一人一人の命を支えて下さる今日の生活の中で、私たちは、「辛抱して、粘り強く生きるのが良い」と主イエスは教えて下さいます。

 ところで主イエスのこの答えは、弟子たちが尋ねたことに対する直接の返事にはなっていません。弟子たちは、「神殿が滅びるのはいつか。またその兆候は何か」と尋ねました。弟子たちは、目に見えている神殿と、また自分たちが今生きることを許されているこの生活がいつまで続くかを知ろうとしています。できれば、その終わりの時が少しでも先延ばしになることを願います。しかし、この問いによっては本当の慰めや救いを得ることはできません。弟子たちが尋ねているのは、例えて言えば、「刑の執行猶予がいつまで続くのか」と尋ねているようなものです。
 それに対して主イエスは、刑罰自体が赦されることを語られます。「罪が赦され、新しい命の希望に生きることができる」ことを、主イエス御自身が新しい命の中に生きておられる方として返事をなさるのです。弟子たちの問いかけにまっすぐお答えにならないのは、そのためです。むしろ主イエスは、「厳しい苦難と試練は、いずれ必ずやってくる。そこからは逃れられないけれども、しかしその苦しみや辛さは、新しい命を産み出すために神が与えておられることである」と言われます。「あなたの経験している嘆きも痛みも苦しみも、神さまは知っていて下さる。永久にその中に留め置かれるのではなく、神がそこにきっと出口を備えていて下さり、新しい命、新しい生活、新しい愛の中へとあなたは導かれてゆくことになる」とおっしゃるのです。

 この地上にあって、むごたらしい戦争や大地震や、どこからともなく忍び寄って命を奪う疫病や飢饉が起こる時、そこでは必ず悲観的に物事を受け止め、世の終わりに臨んでいると言いたがる人が現れるものです。そうした厳しい現実に直面するところでは、私たち人間は決して不死身ではなく、いつか自分も死んでしまうという不安と恐れを身に宿しているために、「まさしく不安と恐れと悲しみこそが、あなたの本当の姿なのだ」と言いたがる人が現れます。そしてそういう思いに支配されると、私たちは真の神に従って生きるよりも、不安と恐れと悲しみに支配されて歩まざるを得なくなります。
 けれども主イエスは、「それは違う」とおっしゃいます。「すべては産みの苦しみの始まりだ。命の始まりだ」とおっしゃるのです。そして、希望を決して失わないために、自分自身に気を配るようにと勧められます。9節と11節に「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。…引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」とあります。
 この主イエスの言葉には、今まで主イエスが弟子たちと歩んで来られた生活の中でのやりとりを超えて、この先、初代教会が直面していく困難が投影され語られていると言われます。確かに弟子たちが主イエスと一緒に旅を続けて来たこれまでの生活の中では、弟子たちがこのような苦しみを受ける場面はありませんでした。これは、主イエスが十字架におかかりになり復活され、地上に教会が誕生した後、最初の頃の教会の人々が迫害を受けるようになることが語られています。初代教会はこのような迫害の不安と恐れを、ひしひしと感じていました。
 こういう言葉を聞きますと、21世紀の日本に生活している私たちは、初代教会の人たちのような厳しい迫害に遭うことなく、こうして礼拝をささげることが許されていることを、まずは感謝すべきだろうと思います。しかしその上で、ここに述べられているような迫害や試練に遭うことはないとしても、今日の私たちに誘惑は何もないのかと考えてみると、そんなことはないだろうと思います。私たちも今生かされている生活の中で、年をとったり病気になったり、願う道がなかなか拓かれなかったり、身近なところに死の出来事が起きたりすることを通して、苦しみや痛み、悩みを経験させられます。そしてそのような中で私たちは揺さぶられ、「自分は一体、何に依り頼むべきか。また、今自分は何に依り頼んでいるのか」ということを、はっきりさせなければならないという経験をしていくことになるのです。

 私たちの人生の主人は絶望なのでしょうか。私たちの真の主は、「死を超え、あらゆる嘆きと苦難の中でも私たちに伴い、共に歩んでくださる主イエス」なのではないでしょうか。主イエスは私たちに、そう語りかけてくださっています。
 私たちの信仰生活は、自分が主イエスを信じるから続いているというよりも、主イエスが私たちに伴い、「一緒に歩んであげよう。わたしはいつも共にいる」と語りかけてくださる御言葉に励まされながら進んで行くのです。私たちは、自分の生活が順調に持ち運ばれている時だけでなく、むしろ逆境の中に置かれていると感じる時にこそ、その生活の中から、「真の私たちの主は、どなたであるのか」ということを憶え、その方に向かって賛美の声をあげるということが求められるのではないでしょうか。
 主イエスは、弟子たちがこの先、様々な困難や苦難に直面することを見越して、「福音が宣べ伝えられ、御自身の十字架と復活が示されること」を、そして「主が共に歩んでくださることの大切さ」を教えようとなさいます。10節に「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」とあります。主イエスは今、この福音のために十字架へと向かっておられます。神が私たちを愛してくださる慈しみ、神が与えてくださる救いが単なる口先だけのお話ではなく、まさに神御自身が、苦しみ、嘆き、痛みを抱え弱り果てる者たちと共におられ、担って下さることを現すために、主イエスは身をもって十字架を御自身に引き受けてくださるのです。

 「苦しみ、嘆き、痛みの多いわたしの人生ではあるけれど、確かに今、主イエスが共におられる。わたしの人生の隅々にまで、主イエスが主となって伴っておられる。わたしは主によって生きる者とされている」、この信仰の言葉を、私たちは、主イエスが確かに私たちを招き、伴い、呼びかけてくださる時にこそ、告白できるのではないでしょうか。
 主が共にいて下さる人生を生きる幸いな者とされていることを憶え、感謝したいと思います。お祈りをささげましょう。

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